鎌倉幕府による「平家の落ち武者狩り」って、厳しくなかったのでは?
銚子には、色々なかたちで、「義経伝説」が残されているのだけれど。
親潮の海流の流れに逆らって、銚子から平泉まで行くのは不自然でしょうと、ずっと思っていました。
そこで、にもかかわらず何故「義経伝説」が銚子に残されているのかという視点から考えていきたいと思います。
疑問解消のヒントを与えてくれるのが、銚子に残されている「平家の落ち武者伝説」なのです。
普通、「平家の落ち武者」と言えば、人里離れた山奥に隠れ住むというイメージで語られるけど。
(例えば、湯西川の伴氏のように。)
ところが、銚子の一地区には、「平家の落人伝説」が残っているのです。
この地域は、平野部でもあり、人里でもあるのです。
しかも、この地域の近くには、「佐貫城」というお城がかつてありました。
源頼朝から、「謀反」の疑いをかけられ、一時期は城主から退けられています。
そんな危険な地域に、義経主従が追っ手から逃れて来ることは、考え難いと思います。
しかし、源義経に付き従ってきた、平時忠(義経の舅・清盛の義弟でもある)が、難を逃れてこの地域に住みついたというストーリー展開が、時忠の家来たちには必要だったのではないだろうか。
時忠がこの地に来る為に、「義経に付き従ってくる時忠」という図式を、家来たちが構築したのではないだろうか。
「簠簋内伝」ともう一つの晴明出生地
「吉生」の地名は、晴明の孫「安倍吉生」にちなむという。
この地にも、「晴明稲荷」という祠、「随心井」という井戸、 が伝わっている。
晴明の母とされる信太の妖狐が、「遊女往来の者」として、 この地を訪れたときに、土地の男と通じて、 晴明を身ごもったという伝承もあるそうです。
晴明伝説のルーツには「簠簋内伝」、「簠簋抄」と言われる 書がありますが。
ちなみに「簠(竹甫皿)、簋(竹艮皿)」とは、
いささかファンタジー小説じみていますが、内容に言及すると。
子どもたちに殺されかけた蛇を、安倍の童子が逃がしてやると、 女性に化装した蛇が竜宮へと導いてくれる。
竜宮でさまざまな歓待を受け、鳥の声を理解できる「烏薬」( うやく)を授かる。
やがて都へ行って、帝の病を治し、宮中に勤め、「安倍晴明」 を名乗ることになる。
ライバル道満との方術対決エピソード、 白道上人による蘇生話などの、不思議な話も残っている。
なお、他にも出生候補地としては、「讃岐国・由佐」があります。
その地名の由来となった由佐氏は、常陸国出身者だそうです。
社会思想家の前田三遊氏によれば、葛の葉の子別れは、葛の葉が「 賎民」であったことが知れたためではないか、としている。(「 満地荊棘」「民族と歴史」)
つまり、被差別民を狐に仮託する形で表現した伝説である、 とする見方です。
それにしても、京の都で活躍していた晴明の出生地伝説が、 何故関東の地に残っているのであろうか。
実際に、筑波山麓が出生地だからなのだろうか?
それとも、晴明の弟子を名乗る「民間陰陽師たち」 の宣伝普及によるものだろうか?
それとも、暦売りによるもの?修験道僧によるもの?
色々な説はあるが、確定した説は無い。
平安期の2時間ドラマ「銚子娘道成寺」エピローグ編(もう一人の晴明)
「欲深で計算高い主水は、突然、高熱を発して、床に伏し、 やがて、延命姫に許しを乞うようにしながら、悶絶死する。
一方、延命姫の死体は魚に食い散らされながらも、 櫛と歯だけが外洋に面した川口の河口付近に漂着する。やがて・・ 」
ここまで書いて、晴明は「ふぅ」とため息をついて、 一服の休息をとった。
茶を運んできた、真福寺の住職が問うた。
シナリオ作りのお手伝いをしていたからである。
「これでは、晴明さまの人格を落としめることになりませんか?」
「それでもよい。あくまでも、儂は脇役で、 主役は延命姫じゃからの。脇役は、悪人でも構わないのだよ。」
「さすが、晴明さま!。して、晴明役はどうされますか?まさか、 晴明さまご自身がされるわけにはいかないでしょう。」
と言いながら立ち上がって、外へ出ようとする。
「晴明さま、どちらへ?」
「境内の桜を見に行く。帝の憾気も、やがて解ける。京の都・ 大坂に帰れる日も近いだろう。・・・おぉ、そうだ。帰る途中、 紀州にシナリオを残しておこう。芸事の盛んな大坂で、 もっと良いシナリオにしてくれるかもしれない。」
(なお、この部分の記事はフィクションであり、登場人物、 団体等には、一切関係ありません。)