隠された<銚子の安倍晴明 >

隠された<社会_政治の裏側>・霊的な事柄を考える

基本的には、勉強のモチベーションの向上の為に、このブログを利用しています。 _ 数年前から、国際社会は現代型の”情報戦を主体”にした戦争状態にあります。 _ 今の時代は、新しい地球社会に向けての過渡期にある、と言えます。 _ ところで、西洋占星術的には、情報や霊性等が風のように流れ入る「水瓶座・風の時代」に移行していることが、2020年末からは顕著に表れているそうです。

茨城・明野町の「葛の葉狐伝説」・晴明の年齢を考える

<この記事だけ表示>
「日本名勝地誌」には、「茨城県真壁郡長讃村大字猫島」という見出しの地名があるそうです。(茨城県筑波山麓の明野町猫島のこと)
そこに書かれていることは、
「(晴明の)母を信太姫と称す。3才の時、その母一首の和歌を遺して去り、遂に狐となる。」
となっています。
 
一方、大阪阿部野の「葛の葉狐物語り」によると、母が襖に残した和歌の内容は「恋しくば 尋ねきてみよ 和泉なる信太森の うらみ葛の葉」というものです。
 
「銚子娘道成寺」の著者、田中幸次郎氏の調査によれば、茨城県稲敷郡の古名は"信太郡"、霞ヶ浦の古名は"浪逆浦信太浦(しのだのうみ)"稲敷郡八代村の古名が"和泉村"であったそうです。
 
大阪阿部野と茨城つくばとは、どういう繋がりがあったのでしょうか。
 
元・東北大学教授で「高天原は関東にあった」の著者である田中英道氏は、その著書の中で、「常陸国風土記」の記述「筑波の県(あがた)は、古、紀の国と謂いき。」と引用しています。
「紀の国」と言うと、紀州(和歌山)を連想してしまいます。
筑波と紀州は、昔何らかの繋がりがあったのでしょうか?
ちなみに和歌山と大阪は隣県どおしで、文化的な繋がりがあったものと推測できます。
太平洋・利根川霞ヶ浦を通して、内陸部にも、いわゆる「黒潮文化圏」というものが関係していたのでしょうか?
 
「時に、吉備大臣独り筑波山麓に来たり、晴明を見て奇児とし、與(あた)うるに陰陽書を以ってしたり云々。」
と地誌には続きます。
この「吉備大臣」とは、将門の乱の戦後処理に猫島を訪れた、藤原師輔のことであろうと、種々の理由から田中幸次郎氏は推測しています。
つまり茨城説では、晴明は師輔に見いだされ、京の都に赴いたことになっています。    
 
通説によれば、晴明が陰陽師として朝廷デビューしたのが50歳、亡くなったのが84歳(昔の人にしては長生きし過ぎ?)と言われていますが、イマイチ腑に落ちません。
茨城説だと、晴明の年齢は何歳になるのでしょうか?
 
「時に、・・・晴明を見て奇児とし」とあります。
将門の乱の戦後処理に、右大臣・藤原師輔(映画「陰陽師」では、左大臣)が、常陸の国に下向したのが、天慶六年(942年)です。
「児」として見られる範囲を、3歳から7歳位までと考えると、晴明の生まれた年は935年から940年頃ということになります。(昔は、数え年で年齢を数えます。)
つまり、通説では921年生まれとなっていますから、茨城説を基として考えれば、それよりも14歳から19歳位若いことになります。
こうして考えれば、朝廷デビューは31〜36歳頃、亡くなったのは65〜70歳位となり、常識の範囲内です。
小説や漫画等で表現されている晴明のイメージに、ふさわしいものとなります。
 
それにしても、何故、晴明は京都から、筑波を経由して、銚子までやって来ることになったのでしょうか?
 
晴明稲荷・葛の葉稲荷  (個人宅の敷地内で一緒に祀られている。「銚子娘道成寺田中幸次郎著より)

f:id:choshi-history:20191204151723j:plain

 
 

 

ここまで読んで頂いて、ありがとうございます。