そこに書かれていることは、
「(晴明の)母を信太姫と称す。3才の時、その母一首の和歌を遺して去り、 遂に狐となる。」
となっています。
一方、大阪阿部野の「葛の葉狐物語り」によると、 母が襖に残した和歌の内容は「恋しくば 尋ねきてみよ 和泉なる信太森の うらみ葛の葉」というものです。
大阪阿部野と茨城つくばとは、 どういう繋がりがあったのでしょうか。
「時に、吉備大臣独り筑波山麓に来たり、晴明を見て奇児とし、 與(あた)うるに陰陽書を以ってしたり云々。」
と地誌には続きます。
つまり茨城説では、晴明は師輔に見いだされ、 京の都に赴いたことになっています。
茨城説だと、晴明の年齢は何歳になるのでしょうか?
「時に、・・・晴明を見て奇児とし」とあります。
「児」として見られる範囲を、3歳から7歳位までと考えると、 晴明の生まれた年は935年から940年頃ということになります 。(昔は、数え年で年齢を数えます。)
つまり、通説では921年生まれとなっていますから、 茨城説を基として考えれば、 それよりも14歳から19歳位若いことになります。
こうして考えれば、朝廷デビューは31〜36歳頃、 亡くなったのは65〜70歳位となり、常識の範囲内です。
小説や漫画等で表現されている晴明のイメージに、ふさわしいものとなります。
それにしても、何故、晴明は京都から、筑波を経由して、銚子までやって来ることになったのでしょうか?
晴明稲荷・葛の葉稲荷 (個人宅の敷地内で一緒に祀られている。「銚子娘道成寺」 田中幸次郎著より)