藤原道長の、「この世をば 我が世とぞ 思う望月の 欠けたることも なしと思えば」は、有名な和歌です。
だから、自分の思い通りにいかない天皇には、 さっさと退位してもらう、その為には権謀術数も辞さない。
そんな藤原家の伝統が、歴史上連綿と続いていた、 と言えそうです。
父は、右大臣・藤原兼家という人です。
花山天皇は、種々の理由で、兼家に疎まれていて、退位・ 出家に追い込まれたようです。
その際の実行役が、兼家の息子であにる道兼( 粟田殿と呼称されていた)です。
道兼は、花山天皇を騙して、こっそりと寺へと誘い、退位・ 出家させました。
その道すがら、晴明の屋敷の前を通ります。
このあたり、歴史の授業というよりも、国語の古文の授業でおなじみです。
晴明は、藤原道長(兼家の子) によっても重用されているのです。
藤原氏による晴明追求は、 生命を脅かす程には厳しくなかったのではないのか?
海路を利用しても、 特に大きな問題はなかったのではないでしょうか。
和歌山(紀州)と銚子は、深いつながりのあるところ。
人の行き来もあり、文化の影響もあり、当然、 海路も開けていたはずです。
藤原家の祖は、中臣鎌足。
皇室にも深いつながりのある神宮です。
17歳で即位(984年)、19歳で退位・出家 、在位わずか2年であった