隠された<銚子の安倍晴明 >

隠された<社会_政治の裏側>・霊的な事柄を考える

基本的には、勉強のモチベーションの向上の為に、このブログを利用しています。 _ 数年前から、国際社会は現代型の”情報戦を主体”にした戦争状態にあります。 _ 今の時代は、新しい地球社会に向けての過渡期にある、と言えます。 _ ところで、西洋占星術的には、情報や霊性等が風のように流れ入る「水瓶座・風の時代」に移行していることが、2020年末からは顕著に表れているそうです。

花山天皇の退位、晴明の都落ち(その経路)

<この記事だけ表示>
藤原道長の、「この世をば 我が世とぞ 思う望月の 欠けたることも なしと思えば」は、有名な和歌です。
自分の娘達3人を、天皇の妻として(つまり、娘の生んだ子は、次期天皇の有力候補者になる)朝廷に送り、権勢を思うままにふるった道長にしてみればそう思える、のもうなづけることです。
藤原氏にとって、天皇は自分の支配の道具と見えた、ことでしょう。
だから、自分の思い通りにいかない天皇には、さっさと退位してもらう、その為には権謀術数も辞さない。
 
そんな藤原家の伝統が、歴史上連綿と続いていた、と言えそうです。
因みに、大東亜戦争(太平洋戦争)開戦時の前の総理大臣・近衛文麿は、藤原家の人です。
 
花山天皇の時代、その秘書役に、藤原道兼(道長の兄)という人がいます。
父は、右大臣・藤原兼家という人です。
花山天皇は、種々の理由で、兼家に疎まれていて、退位・出家に追い込まれたようです。
兼家(因みに、この人は映画「陰陽師」にも登場している。捨てた女に呪をかけられる、という惨めな役だが。)は、自分の孫(一条天皇)を早く即位させたかったし、その後、自分も摂政となります。
その際の実行役が、兼家の息子であにる道兼(粟田殿と呼称されていた)です。
道兼は、花山天皇を騙して、こっそりと寺へと誘い、退位・出家させました。
その道すがら、晴明の屋敷の前を通ります。
 
天体の事象から、花山天皇の異変を感じとった晴明は、式神に命じて、内裏の様子を見させようとした、平安時代の歴史書・「大鏡 上巻」には詳しい記述があります。
このあたり、歴史の授業というよりも、国語の古文の授業でおなじみです。
 
その後、晴明は、藤原氏の監視の目から逃れて、陸路を通って、生まれ故郷の茨城筑波に来た、と田中氏は主張されておられますが、私には少々疑問に感じられます。
 
晴明は、藤原道長(兼家の子)によっても重用されているのです。
藤原氏による晴明追求は、生命を脅かす程には厳しくなかったのではないのか?
海路を利用しても、特に大きな問題はなかったのではないでしょうか。
常識的には、太平洋(黒潮)・利根川霞ヶ浦を経由して、筑波に行ったことも、考えられます。
和歌山(紀州)と銚子は、深いつながりのあるところ。
人の行き来もあり、文化の影響もあり、当然、海路も開けていたはずです。
また、晴明の旅の目的には、鹿島神宮香取神宮にお参りすることもあったのではないでしょうか。
藤原家の祖は、中臣鎌足
鎌足鹿島神宮の神官であった、との説もあります。
皇室にも深いつながりのある神宮です。
近くに行ったのなら、鹿島神宮香取神宮を訪れない理由はないはずです。
 
 
17歳で即位(984年)、19歳で退位・出家 、在位わずか2年であった
 

 

ここまで読んで頂いて、ありがとうございます。