隠された<銚子の安倍晴明 >

隠された<社会_政治の裏側>・霊的な事柄を考える

基本的には、勉強のモチベーションの向上の為に、このブログを利用しています。 _ 数年前から、国際社会は現代型の”情報戦を主体”にした戦争状態にあります。 _ 今の時代は、新しい地球社会に向けての過渡期にある、と言えます。 _ ところで、西洋占星術的には、情報や霊性等が風のように流れ入る「水瓶座・風の時代」に移行していることが、2020年末からは顕著に表れているそうです。

銚子に残る平家の落人伝説 I

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銚子の「犬吠」という地名は有名ですが。

その昔、義経主従が、奥州藤原氏を頼って海路を落ちのびていったされるが、残された愛犬が主君を慕って吠え続けた、とされることに地名の由来があります。

銚子には義経にまつわる数多くの伝説が残されているのですが、史実に照らして考察するなら「そういうことは無いでしょ😅」と言いたくなってしまいます。

 

そもそも、銚子に残されている平家の落人伝説とは、いかなるものでしょうか。

そして、義経伝説との関連性は?

 

時忠天神と笹巻橋

修験者姿に身を変えた義経一行は、常春の弟、弘常に守られながら佐貫城に入り、病弱の時忠の回復を待っていたが、千葉常胤の追手の気配を知り、犬吠へ向かう途中、とある流れに会い、渡るにも橋がない。

時忠は馬の鞍を川の中に置かせ、義経一行はそれを飛び台として渡った。

これが「鞍橋」、転じて「倉橋」の地名になった。

時忠は義経のそれ以上の庇護を断り、供の者数名を連れ、猿田の里へ向かう。

海上川(現・高田川)にさしかかったが渡る橋がないので、近くの笹竹を曲げて橋として渡った。(笹曲橋のちに「笹巻橋」と言うようになった)

「命あらば、またも渡らん下総の、海上川の笹曲の橋」

のちに時忠が詠んだ歌である。

時忠は病状が悪化し、歩くことも困難となり、食物や薬もなく、途方にくれたところを、近くの農夫に助けられ手厚く看病された。

時忠主従は、この地を安住の地と定め、村人たちに読み書きを教えながら、その生涯を終えた。

死後、村の人たちは供の者から時忠の名を聞き、その徳を慕って天神を建てて霊を祀り、「時忠天神」と呼んで、今でも学問の神として、信仰を集めている。

 

以上が、銚子に残されている「平家の落人」伝説の代表的なものですが。

平家の落人って、あまり目立たないように、山奥にひっそりと隠れ住んだイメージが強いけど。

銚子に残されている平家の落人伝説から判断すると、人里近い平野部にも住んでいたのでは。

鎌倉幕府による「平家の落ち武者狩り」って、初期の頼朝の時代は厳しかったかもしれないけど、だんだんと緩くなったのでは?

源家は3代で消滅するし、初代の執権・北条時政は平時政であったのだから。



参考文献「銚子の歴史と伝説」

 

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時忠天神(倉橋天神社)

 

ここまで読んで頂いて、ありがとうございます。