銚子の「犬吠」という地名は有名ですが。
その昔、義経主従が、奥州藤原氏を頼って海路を落ちのびていったされるが、残された愛犬が主君を慕って吠え続けた、とされることに地名の由来があります。
銚子には義経にまつわる数多くの伝説が残されているのですが、史実に照らして考察するなら「そういうことは無いでしょ😅」と言いたくなってしまいます。
そもそも、銚子に残されている平家の落人伝説とは、いかなるものでしょうか。
そして、義経伝説との関連性は?
時忠天神と笹巻橋
修験者姿に身を変えた義経一行は、常春の弟、弘常に守られながら佐貫城に入り、病弱の時忠の回復を待っていたが、千葉常胤の追手の気配を知り、犬吠へ向かう途中、とある流れに会い、渡るにも橋がない。
時忠は馬の鞍を川の中に置かせ、義経一行はそれを飛び台として渡った。
これが「鞍橋」、転じて「倉橋」の地名になった。
時忠は義経のそれ以上の庇護を断り、供の者数名を連れ、猿田の里へ向かう。
海上川(現・高田川)にさしかかったが渡る橋がないので、近くの笹竹を曲げて橋として渡った。(笹曲橋のちに「笹巻橋」と言うようになった)
「命あらば、またも渡らん下総の、海上川の笹曲の橋」
のちに時忠が詠んだ歌である。
時忠は病状が悪化し、歩くことも困難となり、食物や薬もなく、途方にくれたところを、近くの農夫に助けられ手厚く看病された。
時忠主従は、この地を安住の地と定め、村人たちに読み書きを教えながら、その生涯を終えた。
死後、村の人たちは供の者から時忠の名を聞き、その徳を慕って天神を建てて霊を祀り、「時忠天神」と呼んで、今でも学問の神として、信仰を集めている。
以上が、銚子に残されている「平家の落人」伝説の代表的なものですが。
平家の落人って、あまり目立たないように、山奥にひっそりと隠れ住んだイメージが強いけど。
銚子に残されている平家の落人伝説から判断すると、人里近い平野部にも住んでいたのでは。
鎌倉幕府による「平家の落ち武者狩り」って、初期の頼朝の時代は厳しかったかもしれないけど、だんだんと緩くなったのでは?
源家は3代で消滅するし、初代の執権・北条時政は平時政であったのだから。
参考文献「銚子の歴史と伝説」