共産主義の唱える理想社会は「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」世の中であります。
これは、経済奴隷からの国民の解放を意味しています。
また、「中央集権的な国家制度は、分散管理的な地方自治制度に止揚(アウフヘーベン)されるであろう。」とも、言われています。
共産主義(科学的社会主義)の基本原則の一つの「唯物史観」には、
「(上部構造である)社会の発展の原動力になるのは、新しい技術の導入など、生産力の進歩・発展(土台となる下部構造の発展)にある」「その発展にとって、桎梏・足かせになるものは取り除かれる」
と言われています。
この考えが真理を表しているとして、それでは、2021年に於ける「新しい技術」とは何なのでしょうか?
実際には、宇宙テクノロジーを含めて、3次元の世界に住む人類には理解不能の「新しい技術」のようです。
3次元の世界からは「観念論」に見えていたものが、より高い次元の世界から見ると、そうではなかったり。
例えば、量子論的な視点から言えば、”大勢の人の意識は、物理的に新しい世の中を造る(別のタイムラインに移る?)”とか。
これらの一連の考え方が、より高い次元への移行を通じて、NESARA・GESARA法の運用を効果的にさせるのでしょう。
また幕末期に先立ってオーストリアのウィーンで、ナポレオン戦争後の世界情勢についての会議(「会議は踊る」で有名)がありました。
その会議の中心となってリードしたのは、ハプスブルク家。
また、ナポレオン戦争の前後の時期、勢力を伸ばしてきたのが、ロスチャイルド家。
以下は落合史観になるのですが。
孝徳天皇(諱、軽皇子)の子、有間皇子が壬申の乱を機に渡欧。(672年)
有間皇子の孫のピピンⅢ世が、カロリング朝(カール(軽?)の王朝)を創める。
その後、紆余曲折を経ながら、ハプスブルク家へと繋がる。
ここで唐突にテーマは大きく変わり、戦前・戦中・戦後の日本、そしてハプスブルク家と國體の件に移ります。
戦前のいわゆる「武装共産党」の時期、中央委員長であった田中清玄のことに関心は移るのですが。
代々、田中家の家系は会津藩の家老の家系。
田中土佐玄清(はるきよ)は、藩主松平容保に従って京都へ赴き、京都警備の為の「市中見回り組」「新選組」等を組織した。
田中清玄の母は、共産党の活動に入ってしまった清玄を諌めるため、「先祖に申し訳ない」と自決をしている。
一方、こういう見方もある。
「会津藩家老田中家は、もともと國體奉公衆の家系である。
一般の共産党員とは筋が異なり、清玄は國體の命を受けて日本共産党に”潜入”していた。」
「日本共産党も日本社会党も、堺利彦が作ったのである。目的は、既に世界的に広まり始めた無政府共産主義に対抗するために先手を打ったわけで、明治39年(1906)に”御用政党”としての日本社会党を設立した。」(注1)
國體参謀としての後藤新平の影もちらつく。
そして、戦後日本共産党議長に祭り上げられた"謎の男"野坂参三は、どういう立ち位置だったのだろうか?
また、田中清玄の師である山本玄峰師の、終戦間際の言葉に次のものがある。
「日本は大関じゃから、勝も、負けるもきれい。日本はきれいに、無条件に負けることじゃ。・・・今<本土決戦じゃ、聖戦完遂じゃ>と言って騒いでおるが、そんな我慢や我執にとらわれておったら、日本は國體を損ない、国家はつぶれ、国民は流浪の民になるぞ。」(注2)
内閣書記官の迫水久常氏を通して、総理大臣就任の件で思い悩む鈴木貫太郎氏と会った玄峰老師は、その旨を伝えている。
「戦争を止めるなんてことを口にしただけで、憲兵や特高がすっとんできて、牢屋へぶち込まれた時代ですからね。」(注2)
どのように日本を終戦に導いたのであろうか?
アメリカは「戦争を終わらせるのに、原爆の使用は役立った。」と述べるだけで、「投下した。」とは言っていない。
意味深である。
田中清玄は終戦直後に、昭和天皇にも拝謁し、「退位問題」に関して、自分の意見を述べている。
また、ハプスブルク家の当主、オットー・フォン・ハプスブルク大公とも親しい間柄である。
「七百年の間、調和の精神、共存の精神でやってきたから、ヨーロッパにおいてハプスブルク家は続いてきた。」(注2)
ヨーロッパ共同体(EU)の創設にも、ハプスブルク家は大きく貢献している。
「清玄をオットーに紹介したのは、堀川辰吉郎=山本玄峰の國體ラインであろう。」(注1)と落合莞爾氏は推察する。
(注1)「神聖ローマ帝国の世襲皇帝になった南朝王子」(落合・吉薗秘史刊行会)
(注2)「田中清玄自伝」(文藝春秋)
田中清玄