あそこにも、ここにも、存在しているのに、人間にそれ自体は認識出来ない。
認識しようとして観測し始めると、形態を変えてしまう。
例えば、電波としてそこらじゅうに存在しているのに、認識しようとしたら、電子の流れとして物質化してしまう。
普段は"波"として存在しているのに、認識しようと思ったら"粒"になってしまう。
これは量子論の命題なのだが、言葉を変えれば、「スピリチュアル」的にも親和性がある。
神は遍在(遍く存在する)なのに、私達の意識に応じて物質化(不遍在)して、私達に影響を与える。
「シュレディンガーの猫」のパラドックスを解決する為のとっておきの思考方法は、"猫が生きている世界"と"猫が死んでいる世界"が同時に並行して存在する「多世界解釈」だそうです。
そして、"生きている猫を見る《自分》"、"死んだ猫を見る《自分》"と、自分も複数人いることにもなります。
私達は、"光側"が勝利する「タイムライン」にいますけど、"光側"と"闇側"が、そこそこの勝負をしていて、"闇側"が勝利するタイムラインも存在するのかもしれません。
量子論を素直に解釈すると、そうなるのだそうです。
ここまでくると、素人の私達にはチンプンカンプンの世界になってしまいます。
「量子論をよく理解している物理学者の一人であるファインマンでさえ、彼らしいユーモアで言ったそうです。
『量子論を利用できる奴はたくさんいても、量子論を本当に理解している人は一人もいやしないさ』と。(注)
英国国教会の牧師・司祭であったジョージ・ヴェール・オーエンは、その著者の中で、霊からのメッセージを伝えている。
「・・・光もただのバイブレーションに過ぎず、しかも発生源から地上に至るまで、同じ性質を保っているのではない。
光が、太陽を取り巻く大気の外に出ると、そこに存在する異質の環境の為に変質し、一旦、人間が"光"と呼ぶものでなくなる。
その変質したバイブレーションが暗黒層を通過し、更に別の大気層、例えば、地球の大気圏に突入すると、そこでまた、エネルギーの転換が生じて、再び"光"に戻る。
『光は闇を照らす。されど闇はこれを悟らず』(ヨハネによる福音書1・5)
これは単なる比喩にあらず、物質と霊のこの宇宙における神のはたらきの様子を述べているのである。」
この通信が送られてきたのは、人間が"量子"について研究を始めた1900年代初頭と、時期を同じくしていることは、興味深い事実である。
学者や芸術家は、なんらかの閃き(インスピレーション)を与えられて、偉大な発見・発想をするという。
(注)「量子論」を楽しむ本