銚子に残る平家の落人伝説 II
それでは次に、当時の歴史的背景、銚子地方の地理的詳細を見てみます。
「頼朝が父とあがめ、鎌倉幕府成立に寄与した千葉常胤・・その常胤の叔父、常衡が築城した。
常衡は、海上与一を名乗り船木郷の領主で、頼朝の麾下にあり飯岡佐貫城に睨みをきかし、動向を探っていた。」
佐貫城(飯岡町下永井)
片岡常春が城主。千葉常胤の軍勢(総大将は嫡子・胤政)に攻められ、佐貫城も落城し、常春所領はすべて常胤に与えられている。
銚子地方はこういう情勢にあり、義経にとって、当時最も危険な地帯であった。
つまり、義経がこの地域に立ち寄ることは、ほとんど考え難いのです。
「では何故、(義経にとって危険と思われる)銚子地域に義経伝説が残されているのだろうか?」
こういう疑問から、義経伝説と平家の落人伝説との関連性を考えてみたいと思います。
この地域は、人里離れた山深いところとは異なり、比較的開発の進んだ、頼朝麾下の領主のお膝元であり、隠れ住む環境としては不具合の多い、厳しい場所であったと想定出来ます。
「平家の落人狩り」に怯えた落人達の、生きんが為の心の支えどころとして、何かが必要であったと考えられます。
このような世情・風土・環境の中で生きてゆくのに、銚子近在に隠れ住んだ平家落人達は、心の拠り所として、義経・時忠をそばに呼び寄せる話を創作したのでは。
そのために、義経の逃避行のルートに銚子地方を通過したとして、お供の時忠も付き随った、というストーリー展開にしたのではないでしょうか。
(史実によると、時忠は能登国に配流になったようですが)
つまり、時忠を身近においておきたいが為に「義経伝説」が創られ、後世に伝えられたと、想定することが出来ます。
ちなみに、「平家の落ち武者」が「カッパ」として伝えられたという説もあります。
「平家の落ち武者」と「河童」は、結びつきづらいように思うのだが。
落ち武者のザンバラ髪のおかっぱ頭とカッパのお皿頭はイメージが近いのかもしれない。
また、「カッパ」という言葉は、ユダヤ人が頭に被る「キッパ」という被り物に由来するという説もあります。
日本人の遺伝子には、ユダヤ人と共通の特徴的なものがあるそうです。
千葉県の「はにわ博物館」には、ユダヤ人とおぼしきハニワも存在しています。
いずれにしても、「河童」は人間には身近な存在であることには間違いない。
(「カッパは宇宙人?」と言う脈絡の中の20分35秒過ぎに、平家の落人伝説とカッパ伝説との関連性が語られている。)