シアトルでの思い出(田舎のアメリカについての感想)
1999年のとき、シアトルの隣町、ピュアロップという田舎町で、ホームステイをしたことがある。
日本で言えば、夏の軽井沢みたいな町に相当する、涼しく湿度も低く、とても過ごしやすい町だ。
雨が降っても多少の雨だったら、シアトル在住の人は傘を差さない。
湿度が低く、空気が乾燥しているので、洋服に付いた雨でも、はたけば落ちるそうだ。
雨というよりは、雪という感覚。
ちなみに、1999年という年は翌年からイチローがマリナーズで大活躍する前年に当たる。
私は、セイフィコ球場に行きたかったのだが、ホストファミリー・牧師夫妻に招待されたのは、アメリカンフットボールのスタジアムだった。
彼らがフットボールの試合を見たかったみたいである。
私はドームのスタジアムに行くのは初めてだったが、あの通路の狭さにびっくりしてしまった。
これでは人は多く入れるだろうが、移動には手こずってしまう。
(サービスのよい、日本の球場にはないだろうと思っていたが、その後、日本の後楽園の東京ドームに行って、ガッカリさせられた思い出がある。)
その時、スタジアムのトイレを利用したことがあるが、アメリカ人の利用の仕方にびっくりした。
普通日本人の男性の場合、小用をするときは正面は壁などであるが、なんと!アメリカ人の場合、他人同士が正対しあい、互いの急所を出し合いながら用を足すのである。
無防備のまま、他人に 背中を向けることは、アメリカ人にとって本能的に避けているようだ。
(ピアラップの床屋に行ったことがあるが、このときも正面は鏡ではなく入り口であった。不審者に背中から襲われることを用心しているように思える。)
シアトルは治安の良い町だったが、市庁舎がBLMやANTIFAに占拠されたという報道に接すると暗澹たる思いになる。
今、アメリカの政治は激変の最中なのだが、日本のマスコミは全く報道しない。
やがて、日本にも大きな影響を与えるだろうことは必至。
「雑感」として、コメント欄に記載しているので、興味あるかたはぜひご覧頂きたい。
それらのことを思い浮かべると、日本という国は全然治安が良いと思うのだが。
最近は、グローバル社会になって日本人にも用心を呼びかけているようにも思う。
グローバル社会になることが、良いか悪いかはわからないが。
全体的にアメリカ人(ここで言っている「アメリカ人」とは、アングロ・サクソンの白人についてなのだが。黒人やヒスパニック系の人についてはよく知り合う機会がなかっただけで人種差別的な他意はない。)についての感想だが。
我々日本人が知っている「アメリカ人」のイメージって、日米の大手マスコミ・映画等々での報道に影響されたものだということだ。
日本にビジネスで来ているアメリカ人ってほとんどが「グローバル企業」でそこそこの成績を上げて、派遣されている人間なんじゃないかと思います。
私がピュアラップで会った普通のアメリカ人は、気さくで人なつっこい人達ばかりでした。
日本人的な感覚で言うと、馴れ馴れしくて、煩わしいと思うくらいの感覚でした。
今でも、日本の田舎で時々見かける、田舎のおじさん・おばさんくらいの感覚。
アメリカ人は、陽気で人懐っこく(フレンドリー)、率直で、しかし良くも悪くも<単純>。
思っていることが表情に出る。
日本人には、アメリカ人は合理的過ぎる、と映ることも多い。
歩きながらコーヒーを飲める「スタバ」(スターバックス)のポットを初めて見た、のもシアトルならではの風景である。
本来、日本では、歩きながら飲食するのはカッコいいものではないので、日本においては開発されなかったかもしれない。
日本人の特徴を言わせてもらえば、陰気でとっつきずらそうで腹の中は読めない、思っていることを表情に出さない。
だから、アメリカ人から見れば、少々奇妙に映る。
しかし付き合ってみると、根は良く、正直で真面目で、信頼できる。
要するに、日本人とアメリカ人は案外相性が合うのではないかという感覚なのです。
しかし、今回のアメリカの「21世紀型クーデター」の日本での後始末は、日本人がやった方が良いように思う。
アメリカ人の感性では日本人を上手く裁けないと思える。
アメリカ社会では「勝つか負けるか」二つの選択肢しかないが、日本では「引き分け」という選択肢が加わるからである。