鎌倉幕府による「平家の落ち武者狩り」って、厳しくなかったのでは?
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銚子には、色々なかたちで、「義経伝説」が残されているのだけれど。
親潮の海流の流れに逆らって、銚子から平泉まで行くのは不自然でしょうと、ずっと思っていました。
そこで、にもかかわらず何故「義経伝説」が銚子に残されているのかという視点から考えていきたいと思います。
疑問解消のヒントを与えてくれるのが、銚子に残されている「平家の落ち武者伝説」なのです。
普通、「平家の落ち武者」と言えば、人里離れた山奥に隠れ住むというイメージで語られるけど。
(例えば、湯西川の伴氏のように。)
ところが、銚子の一地区には、「平家の落人伝説」が残っているのです。
この地域は、平野部でもあり、人里でもあるのです。
しかも、この地域の近くには、「佐貫城」というお城がかつてありました。
源頼朝から、「謀反」の疑いをかけられ、一時期は城主から退けられています。
そんな危険な地域に、義経主従が追っ手から逃れて来ることは、考え難いと思います。
しかし、源義経に付き従ってきた、平時忠(義経の舅・清盛の義弟でもある)が、難を逃れてこの地域に住みついたというストーリー展開が、時忠の家来たちには必要だったのではないだろうか。
時忠がこの地に来る為に、「義経に付き従ってくる時忠」という図式を、家来たちが構築したのではないだろうか。